2015年4月アーカイブ

以前の記事で一夜城について書きました。

昭和35年発行の明智町誌には、一夜城の伝説として以下の記述があります。門野の大平山に一夜城の跡がある。甲州兵が明知城を攻めるおり、秋山伯耆守は戸障子をここに建て廻し、一見して白壁の城のようにみせかけたという。慶長8年に遠山氏はこの陣屋の跡に愛宕神社を勧請し、鬼門除けとして建立した。今も門野・杉平両部落で6月24日に祭をしている。

この文章は、伝説のところに書かれていますが、実際にふもとの部落の年中行事には旧暦6月24日のあたごやまのお祭りが入っています。慶長8年は、徳川幕府が成立し戦国時代が終わり安定した時代に入った年です。明知を治める遠山氏としては鬼門の方角の山に神社を置いて邪悪なものがはいってこないよう魔よけとしたのでしょう。神社については信ぴょう性が高い縁起話として理解できるのですが、一夜城のほうは本当にあったんでしょうか?

あたごさんと言っている石の祠は山頂ではなく、かなり下った町を見下ろすところにあります。山頂には永久穂神社と彫った石があります。こちらのほうは文字が非常に鮮明なので比較的新しいものではないでしょうか。このあたりは現在の地籍では、大平ではなく"花柄"という地域です。山で人は住んでいません。大平というのはあちこちにある地名で、串原村には今も大平という地区があります。誰が書いたのか、山頂の三角点近くに"大平"という文字と標高を書いた札が下がっていました。国土地理院のHPで調べると、ここは4等三角点TR4523773801 基準点名 大平 とあるので、歴史的地名では、大平であったようです。

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 あたごさんの石の祠

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 山頂にある永久穂神社

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1500年代終わりごろの 戦後時代末期には、このあたりは三河の織田氏と甲斐の武田氏の勢力圏の境だったそうで、両軍がこのあたりで何度も激突したらしいです。ただ、この不安定な時代に何がほんとうにあったかは記録があまり残っていないのではっきりしないようです。ネットで情報を調べても、諸説混沌としていて、どれがほんとかわからないです。歴史を書く人は地元やひいきの英雄に都合よく書くし、大衆受けするための誇張したり、作り上げたりは当然あるでしょう。

杉野一夜城が実際に出現したとしたら、いつのことか考察してみたいと思います。この地へ侵入した武田軍との戦闘を上村合戦と呼んでいるようです。飯田城主の秋山氏が上村(今の上矢作町)方面から侵入し戦闘となったことから、こう言っているようです。当時は遠山氏が岩村城や明知城を治めていて、どちらかというと織田寄りだったようです。一説では元亀元年(1570年)12月に武田(秋山氏)が攻めてきたということになっています。元亀3年(1572年)12月という説もあります。この場合、あたごやまは、戦闘とはあまり関係ない位置なので一夜城が出現するとは考えられません。この時に岩村城も明知城も武田側に落ちたと書かれたものがありますが、そうすると以降の話がつづきません。元亀3年(1572年)12月の戦いで岩村城は武田側に落ちたとするものもあります。女城主の伝説があります。

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 ほかの説では、天正2年(1574年) 2月に武田軍が明知城を攻めて落城させたというのがあります。この時、武田側は明智の北に陣をはったとあります。岩村城から発進したんでしょうか?となると、杉野一夜城の出番となります。信長公記という伝記によると織田信長も明知城を助けるために出陣したが間に合わず明知城は落城してしまったとあります。信長公記には一夜城のことは書かれていません。

昭和43年発行の串原村誌には、城の種類の解説のところに"陣営の城"の例として、天正2年武田勝頼が明知城攻めの際の杉野一夜城を挙げています。このあたりの出典を知りたいところです。下の地図では岩村から明知の途中に一夜城が位置していて、ありそうな話にしていますが、現在の道が400年前の道と同じあたりにあるとして、一夜城は道から数Km離れた道なき山の上となります。現在の感覚では馬で行けるようなところではありません。とは言え、そんな山の上の方に神社の石の祠があったりするわけですから、昔はそんなのが普通だったのかもしれません。

明知城落城については、諸説あって信長は明知の北西にある鶴岡山に陣を張った(張ろうとしたが、到着前に明知城が落ちてしまったので瑞浪市のあたりで引き返したと信長公記には書いてある)と言われています。鶴岡山は行ったことありませんが、山頂あたりに神社があります。こちらはけっこう有名です。鶴岡山には信長のほか明智光秀も駆け付けたといった説もあり、光秀は信長の家臣なのでありうる話ではありますが、あまりにできた話で、え!本当?とうなってしまいます。

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 明知城が武田側に落ちた後、織田氏が武田氏を長篠の戦いで打ち破って勢力を高め、明知城や岩村城を取り返したり、信長が本能寺で殺されたり、秀吉が天下を取ったあと徳川が安定政権を築くまで、たくさんの人が殺されたり戦国時代後半の50年ほどは大変な時代であったようです。そのころにあたごやまで何があったかは、まったくもって不明です。

明知城からはあたごさんの神社があるあたりも山頂のあたりも良く見えます。こんどは、石の祠に何が彫られているか調査してこようと思います。

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文中、明智と明知がごちゃごちゃになっていますが、現在、岐阜県恵那市にあるのは、明智町です。昔はこのあたりは明知と言っていて、1954年(昭和29年)に明知町と静波村が合併して明智町になりました。杉野一夜城のあったあたりは、旧静波村です。ちなみに、明智光秀は、"明知光秀"ではありません。美濃の明智氏の出身といわれ、恵那市の明智とは本当は関係の薄い人物というのが定説です。

団子杉

実家の方にある岐阜県指定天然記念物です。数十年ぶりかで行きました。遠足で行った以来ではないでしょうか。

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大きな古代杉です。樹齢千年以上とか、、昔行った時は枯れかけてたような印象ありましたが、今は手厚く保護されて元気になったようです。

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その名のとおり団子のような形をしていて、植林する杉とは違う植物に見えます。

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明知城の水源だったという沼があります。

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行った時は、カモさんが一羽とやせた鯉が数匹泳いでいました。近くに人家が数軒ありますが、トイレと駐車場も整備されていて、木陰でのんびりするのも良いかもしれません。ちなにみ携帯はDocomo, Softbankとも圏外の山影です。

誰も来ない山頂の愛宕神社

前の記事の永久穂神社(?)から約300m離れた、海抜約640mの尾根にある祠です。愛宕神社というのですが、それを示すものは、明らかでありません。何十年ぶりかに現地に行きました。

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左の人には何か文字が彫ってありますが読めません。

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右の祠には穴があいていて、ここから覗くと中に何か書いた木片があるのが見えます。

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これの横にも何か書いてありますが良く読めません。左側の文字は、"杉平村"と書いてあるようです。

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昭和50年頃ここへ来た時は木が小さく、もっと開けた所でした。ふもとの町が良く見えましたが、今は薄暗くなっています。

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 昭和35年発行の明智町誌には、一夜城の伝説として以下の記述があります。

門野の大平山に一夜城の跡がある。甲州兵が明知城を攻めるおり、秋山伯老守は戸障子をここに建て廻し、一見して白壁の城のようにみせかけたという。慶長8年に遠山氏はこの陣屋の跡に愛宕神社を勧請し、鬼門除けとして建立した。今も門野・杉平両部落で6月24日に祭をしている。別の文献によれば天正2年(1574年)のこととなっています。この記述が正しいとすれば明知を攻めた武田軍が山の上に砦を築いたように見せかけたということになります。明智城と、この山との位置関係は下のようになっていて、向こうの山に突然城が現れたらびっくりすると思います。別の伝説もあって、ここには攻めてくる武田軍を防ぐための砦が作られていたという説です。山の上に砦を築こうとしたらふもとの村から人力、物資を調達しなければならず、こっちのほうが本当らしい気もしますが、こんな山の上に攻めてくるんでしょうか?

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 いずれにしても、この山はたいへんなところで、ふもとの部落から標高差200mあります。こんなところに砦を作って何の意味があるのか、現代的には意味不明です。南側は急斜面に深く轍(人なのか馬なのか、木を引きずった跡なのか定かでない)が掘られた登山道がいく筋かあります。山頂は三方向がかなり切り立った斜面で砦としては良く思えます。北側が尾根沿いに入ってこれますが、昔は深い山だったかもしてません。今は林道が通っています。歴史ロマンですね。