さらに杉野一夜城について考察を進めます。下は明知城跡です。ここは明智の町に近いこともあり整備されています。観光案内版には、遠山氏の居城だったが、武田の軍勢によって天正二年(1574年)春に落されたと書いてあります。一夜城についてはふれてありません。
明知城跡は木が大きくなっていて眺望はあまりありませんが、向こうに一夜城があったという山が見えています。
一夜城があったという山も木が大きくなってしまっていて明智の町の眺望はありません。しかし40年前に来た時には町が見下ろせたような記憶があります。明知城を見下ろせるということでは戦略上よかったのかもしれません。この山は、不自然に段が付いているところがありますし、かなり険しいところもあって一夜城伝説にはふさわしいところです。ただ、400年もまえのことで木造の何かがあったとしても、燃えたり腐ったりしたら残っていないわけで、本当に伝説です。
山頂から下ったところにある石の祠と地蔵さん。石は比較的残ります。この表面に彫ってある文字を何とか読んでみました。
石の祠の右側。
門野村 文化六己巳年 と彫ってあるようです。
左側
九月吉日 杉平村 と彫ってあるようです。文化六年に門野村と杉平村が共同で建てた物のようです。
地蔵さん。
これが風化が進んで解読困難ですが、享保七(以下判読できないが、壬寅かもしれない?) と彫ってあるようです。
つまり、石の祠が、文化六年(1823年)、地蔵さんは、享保七年(1742年)ということになり、遠山氏が慶長8年(1622年)に勧請した愛宕神社そのものでは無いということです。謎はますます深まります。山頂が一夜城伝説に続き江戸時代の初めに遠山氏が建立したという愛宕神社の名残で、ここにあるのは、江戸後期に地元の部落が建立した愛宕神社に、謎の地蔵様を一緒に祭ったものなんでしょうか?江戸後期でも一夜城からは200年たっているわけで、そのころでも現代と同じく伝説の一夜城であったと思います。あるいは愛宕神社建立から200年を記念して祠をつくっただけなのかもしれず、一夜城は後世の創作なのかもしれません?
その後、考察ー2で撮影した木片の"愛宕大権現"の上に書かれている文字をよく見てみました。そこには、"再建立"と書かれているではありませんか。なんらかの原因で失われてしまっていた(記録には残っていた)愛宕神社を文化六年に再建立したということのようです。